1.日本初の野球の試合は北大の前身「開拓使仮学校」
1)明治6年、東京芝にある増上寺の広大な境内の中にあった札幌農学校の前身 「開拓使仮学校」において米国人教師Albert G.Batesが米国から持参したボール3個とバット1本で、生徒に野球を教え、Batesの審判で生徒チームの試合が行われた(開拓使仮学校に在籍し、札幌農学校の1期生であった大島正健著の「クラーク先生とその弟子たち」から)。
これが、我が国の最初の野球の試合と言われている。(Batesは明治6年2月に来日したが8年1月に急逝し、そのお墓は横浜の外人墓地にある。)
2)ただし、明治5年に東京の第一大学区大一番中学校(のちの開成学校、東大)において米国人教師Horace Willsonが放課後、生徒にノックをしていたとあり、これが我が国で最初の野球行為としているが、試合をした記録はない。
しかし、その場所には写真のように「日本野球発祥の地」の碑がある(東京学士会館前)。
2.北海道での野球事始め
1)開拓使仮学校は明治8年に札幌に移転して「札幌学校」と改称され、9年にWilliam Smith Clarkを迎え、9月に「札幌農学校」となった。この中に開拓使仮学校、開成学校から移ってきた生徒が24名おり、Batesの指導を受けたものが4名いた。2期生の新渡戸稲造も野球をしたと証言している。しかし、このころに試合をした記録がなく、野球行為のみと考えられる。
2)Clarkとともに着任した教師D.P.Penhallow(現在、北大でペンハロー賞が制定されている)が米国からバットとボールを持参してきており、彼はルールにも詳しく学生にコーチをしたとされ、札幌農学校が北海道に野球をもたらした。
3.北海道での最初の試合
1)明治11年頃から学生が増え、野球が校内での一番の人気スポーツとなり、11年に始まった遊戯会(いわゆる運動会でこれが全国に広まったと言われている)の観客集めに野球をやったという記録がある。
その後も多くの学生が野球を楽しみ、春になると演武場(今の時計台)の前のローン(北1条西3丁目)に飛び出し、放課後の野球を楽しんだという。
2)初の対外試合
初代の野球部長の松村松年(明治20年入学)が中心となって、25年に「ベースボール会」を組織し、私立北鳴学校と試合をした記録がある。これがはじめての対外試合である。(北鳴学校は新渡戸稲造の発案で設立された)
4.ついに札幌農学校に野球部が生まれる
1)農学校の野球は次第に発展していった。明治34年に文武会が発足し、柔道部、庭球部などとともに「野球部」が創設された。
2)野球部の初めての対外試合は明治35年5月3日の北海道師範学校(現道教育大)であった。細かい記録はないが農学校が勝ったようである。当時、北海道には札幌中学校(現札幌南高)、北海道師範学校、北海英語学校中学(農学校に入学するための学校で現在の北海高校)に野球部が出来ている。(東大(一高)は明治23年、慶応義塾は明治21年、早稲田は明治34年に創部)
3)明治40年に東北帝国大学農科大(農大)野球部となる。
5.樽商戦の始まり
1)開始の理由は不明であるが、明治44年に小樽高商に野球部が出来、明治45年から農大、小樽高商戦が開始され、現在も連綿と続いている。(詳細は別記)
2)小樽高商の高等学校に対し農大は予科、本科合同チームのため年齢差があり農大有利と言われていた。北の早慶戦、一高・三高戦と言われた(早慶戦は明治36年開始)。
3)これといった娯楽がない時代であったため、この定期戦には多くの観客が詰めかけ、1万人以上の観客となることも珍しくなく、ラジオ中継も行われ、新聞も大きく報道した。
しかし、没収試合があったり、応援団がグランド内になだれ込むなど両チームともにこの試合にかける思いは熱く、試合の前には合宿をしたり、応援のため授業が休みになるなど全校挙げての試合であった。勝利すると北大の応援団の感激ストームは球場から繁華街へと展開され、小樽の街は花火を上げるなど町中が大騒ぎとなったと言われている。これは戦後、数年は続いていた。
6.大正7年、北海道帝国大学野球部となり、10年に予科と本科に分かれる
1)大正7年に北海道帝国大学農科大学として独立し、北海道帝国大学野球部となったが、8年に医学部が新設され(13年に工学部、昭和8年に理学部が新設)、予科の生徒も増え、大正10年に予科野球部が分離独立した。
2)これにより小樽高商戦は予科との定期戦となり、対等の戦いとなった。予科は全国高等専門学校野球大会及び全国高等学校野球大会(インターハイ)に出場。昭和8年にはインターハイで全国ベストエイトになっている。
3)大正10年に予科・本科合同で「バンクーバー朝日野球団」と対戦し、4-1で勝利している。(東大、早慶とも試合をしている)
4)本科の文武会野球部は予科チームの指導が中心であったが、大正15年から東北帝国大学との定期戦を始めた。
5)昭和10年、OBと現役の結びつきを強めようと本科の文武会野球部と予科の桜星会野球部の歴代野球部長、卒業生、本科、予科の現役部員で「北大野球会」を設立した。
7.久慈次郎(函館オーシャン)から再三の指導を受ける
1)函館オーシャン(函館太洋倶楽部)は道内初の社会人チーム(師範学校卒業生中心)として明治40年に結成され、農大を明治40年に卒業した吉田守一は2代目の監督となり大正4年まで務めた。これが縁で、農大と函館オーシャンは大正2年を皮切りに幾度となく対戦し、予科は函館オーシャンの監督兼選手の久慈次郎のコーチを3度ほど仰いでいる。
2)久慈次郎は早稲田大学出身で全日本チームの主将兼捕手として米大リーグ選抜チームと対戦している。しかし、昭和14年札幌倶楽部との試合で、四球後の捕手のけん制球をこめかみに受け、2日後に脳内出血で42歳の若さで生涯を閉じている。久慈の棺を乗せた列車には札幌から函館までの停車駅ごとに熱烈な野球ファンが詰めかけて、久慈の死を惜しんだといわれている。
昭和22年、都市対抗野球大会三賞の敢闘賞として「久慈賞」が設けられた。
3)昭和17年卒の木村三郎はこの球史に残るアクシデントを目撃している。
8.野球部歌「南征歌」誕生
1)昭和5年の春の合宿において、マネージャー須田政美の作詞、長谷川誠の作曲で野球部歌「南征歌」が誕生した。
9.部史の発刊
1)昭和13年12月、日本の野球草創期の札幌農学校時代から昭和12年までの活動をまとめた「北海道帝国大学野球部史」が発刊された。
10.全国への野球の普及
1)明治15年に北海道の開拓政策が廃止されたため、札幌農学校の卒業生は開拓関係の仕事に勤務する義務がなくなり、全国の学校に教師として就職している。
2)これにより、全国及び道内の各地に野球とともに運動会も普及させている。 1
11.戦争と野球
1)満州事変(昭和6年)、満州国建国(昭和7年)、日中全面戦争突入(昭和12年)、ノモンハン事件(昭和14年)、第2次世界大戦開戦(昭和14年)、太平洋戦争突入(昭和16年)という流れの中で野球界にも様々な制約が及んでいく。
2)昭和11年、昭和天皇の統監する陸軍特別大演習にあたって農学部本館が大本営(クラーク像と道を挟んで「聖蹟碑」が建立されている)になり、それに先立って、青春の思い出が詰まった寮の全部屋の落書きが消され、9月26日から各運動部の練習が禁止された。
3)12年には日中全面戦争の影響からインターハイで使用予定の神宮球場が使用禁止となり、予科の試合も駒場球場に変更となった。
4)13年には「国家総動員法」が施行され、牛革、金属製品は使用禁止となり、ボールだけは牛革が割り当てられたが、他は在庫か他のものを使用することとなる。また、学生野球では試合前に黙とうする、審判員の判定に抗議しないなどが実施された。
5)16年には学生スポーツは競技より体力育成が主眼となり、全運動部が鍛錬部となって北大も本科、予科の野球部は解散し、それぞれ鍛錬部野球班に変わった。そして、インターハイが中止となり、全国中等学校優勝野球大会も中止となった。小樽高商との定期戦も秋には中止となった。学生も繰り上げ卒業となり野球部員も兵役に就いた。
6)17年には寮の部屋の壁への墨書によりキャプテンが退寮処分を受け、野球も断念へ追い込まれた。しかし、野球班停止命令前の最後の小樽高商定期戦が6月に開催された。
また、インターハイは前年に中止となったが、戦争が拡大する中、政府は「戦時下の学徒の鍛錬を通じ必勝の精神を養う」という趣旨で野球を含めて、全国高等学校体育大会を新設した。
東北大との定期戦もこの年で中止となった。本科生の卒業は前年よりさらに繰り上り、野球部員も戦場に赴く身を札幌駅で「都ぞ弥生」を謳って送り出された。
7)18年には敵性スポーツ視された野球は廃止され、野球班員たちは「戦場運動班」に組み込まれ、手榴弾を投げたり、銃や背嚢を身につけて走ったり、障害物を突破するといった運動であった。予科の修業年数は2年に短縮され授業より軍需工場への勤労作業や食糧増産のための援農動員の日々であった。
野球用語が日本語に代えられたプロ野球はかろうじて実施されていたが、19年9月9日が戦時下の最後の試合となった。
北大野球部OBの戦死者は6名、小樽高商野球部OBは10名。
12.北大野球部の偉大な大先輩たち(戦前)
1)新渡戸稲造は農学校2期生で野球をしたと明言しているが、その後「野球亡国論」を東京朝日新聞に書き、これらも要因となって北海道は当初、中等野球(現甲子園大会)道大会を実施しておらず、全国大会に5年間出場していない。
2)部報の名簿の最初に記載されている明治22年卒の橋本左五郎は、農学校初の留学生で、練乳の製造技術を確立し北海道酪農の救世主といわれている。夏目漱石の朋友で、東京から札幌へ来る時に、漱石が橋本のボロボロの袴をみて、これを穿いてゆけといって袴を呉れ、それを着てきたという。北大名誉教授。
3)明治28年卒の松村松年は留学から帰国後野球部を創設し、初代野球部長として小樽高商戦の創設等北海道の野球の発展に尽くした。世界的昆虫学者。北大名誉教授。(北8西5の「博多ぶあいそ別邸」は松村松年部長の旧邸宅)
4)大正7年卒の木原均は現役時代にエースで4番を務め、今でいう長嶋を彷彿させるプレーヤーであったと言われていた。世界的遺伝学者で、コムギの研究を通じてゲノム説を提唱、京大教授となり国立遺伝学研究所所長を務め、自ら木原生物学研究所を立ち上げている。
木原の業績を記念し、21世紀に向けて生命科学の振興を図ることを目的に木原記念横浜生命科学振興財団が設立されている。京大名誉教授。
5)第3代部長の内村裕之は札幌農学校2期生、内村鑑三の長男で東大医学部出身であるが、一高時代から野球部に所属し、名プレーヤーであった。昭和2年に北大医学部教授となり、昭和7年から9年にかけて野球部長を務め、コーチにもあたったという。
東大教授になり、昭和37年に3代目プロ野球コミッショナーになっている。新人研修制度を行おうと提案したが、オーナー陣の激しい抵抗にあい、「どんな医者でも完治の見込みがなければ患者を見放すものだよ」とコメントし自らコミッショナーの職を降りている。
6)昭和16年卒の二階堂孝一は昭和13年寮歌「津軽の滄海の」の作詞をしている。
1944年に中国で戦死。
7)第4代部長の犬飼哲夫は動物学の権威。北大教授。南極地域観測隊の樺太犬の(タロやジロなど)飼育などでも著名。