北大硬式野球部の奮闘に寄せて若き時代を想う
北大野球部OB会長
加藤紘之(昭和42年医学部卒)
はじめに
今年、北大硬式野球部は歴史的快挙を成し遂げた。110年目の創部以来、はじめて全国大会で1勝をあげ、しかもベスト8まで進んだのである。神宮球場には70名以上のスポーツ記者が詰めかけその数はあの斉藤侑投手の投げた早慶戦をはるかに越えたとのことである。ゲーム展開の詳細は別の報告を参考にしていただくとして小生、OB会長をつとめ選手の頑張り、監督の苦労を身近に見てきたので若き時代への想いを交叉させながら観戦記を綴ってみた。
北大野球部 創部110年目の1勝
2010年6月8日(火)は北大野球部にとって記念すべき1日となった。
予選を勝ち上がった26大学が、神宮、東京ドームに分かれて全国大学野球選手権が始まったその日、小生も全てを投げ出し東京ドームに駆けつけた。対戦相手は四国代表の四国学院大。26大学の中で国公立大学は北大のみ、しかも参加選手名簿によると選手36人は極端に少なく、新人も6名、相手にとっては組み易しと見えたかもしれない。
しかし、結果は以下の如くであった。
北大 000030000 3
四国学院 001000000 1
石山(4年:理学部数学科)が4安打におさえて完投、主将の城嶽(4年:工学部応用物理学科)が満塁で適時打を放った。
石山は昨年まで捕手の控えで背番号8をつけていたが、この春からエースナンバー18を先輩から譲り受けた。183cmの長身によく似合っていた。全国出場を記念してOB会から新しいユニフォームを寄贈したが北大カラーの真緑の文字が東京ドームの芝生に冴えてとても美しかった。
小生もボロ羽織、はかまに下駄姿、ほら貝にコイのぼりの応援団近くで声をからしたが、“神宮で勝つ”、この合言葉がついに実現したことに目が潤んだ。
グランドの選手たちを見ていると48年前のことが鮮明に蘇ってきた。現役の4年間は、月曜日を除く毎日午後1時半からの練習に明け暮れシーズン中の
講義は全て出席不可能、進級できたのは同期のお陰であった。解剖学実習は
6人のグループで御一体を解剖させていただいていたが、巧みに入れ替わって
“加藤君”“はい”が罷り通った。当時のK助教授は心熱い温情家で目の前の
代返を許してくれた。学部5年目は出場資格を失うためコーチとしてノックの雨
を降らせていたが1956年、初めて神宮への出場を果たした。相手は関東学院大、
とんでもなく強いチームで0対9で敗れた。当時の4番を打ったのが現監督の安達
三郎君でまだ2年生だった。札幌へ戻って新チームがスタートしたある日、新主将
らチームの主力が訪ねてきて監督をやってくれと頼まれ戸惑った。6年目になったら臨床実習も始まるし、少しは勉強して真っ当な医者にならなきゃと思っていた矢先でもあり、また当時、学内では安保闘争に続いて青医連運動が政治闘争へと拡がり野球漬けの自分たちが大学生として恥ずかしい存在らしいと感じ始めていたからである。しかし後輩たちの真摯な表情を見ていると打ち捨てることはできなかった。唯一つ彼等に誓ったことがあった。“俺は監督をやる程の技量は持ち合わせていない。
采配のミスも多いだろう。それは許して欲しい。しかし必ず皆んなと一緒にグランドにいる。俺の見ている前以外の時間に練習はしないでいい”。かくして素人監督のもとで24名の部員が懸命に闘った。しかし甲子園組を集めた北海学園大の壁は厚く決勝で敗れ去った。学生時代で最も悔しい大粒の涙を流した。熱い熱い青春の終わりであった。こんな先輩たちが約550人。君達は我々の願いを叶えてくれた。感謝以外の言葉はない。
ところで医学部医学科の選手は1979年卒の高橋昌宏君(現札幌厚生病院副院長)以来、出ていない。彼の奥さん(旧姓赤木淑子さん)は獣医学部の学生であったが初代女子マネージャーをつとめ現在、札幌学生野球連盟の事務局長の重責を果たしてくれている。女性で思い起こされるのは2007年卒の樋口真理花(理学部)で4年間、二塁手として選手生活を続け華麗な守備を見せてくれた。公式戦でヒットを打つことはできなかったが、当時の意気込みを創薬の研究にぶつけている。
北大旋風 ??初のベスト8に沸く??
ベスト8をかけた試合は強豪ひしめく広島六大学を勝ち上がってきた出場11度目の強豪、広島経済大であった。この試合は3年の佐藤輝(工学部環境社会工学科)が先発した。佐藤は文武両道を目指す立命館慶祥高で野球を続けていたが現コーチ井上(丸紅内定)らの影響も受け、二浪して入部してきた。高校時代の蓄積もあり、戦力として期待されていたが昨年は肩を痛め1年間を棒に振った。秋から冬にかけ走り込み下半身がどっしりしてきた。石山は捕手からの転向でもありプロパー投手としての意地もあった。一方で、主務(マネージャー)を努め相手チームとの交渉、日程作りから資金集めで苦労していた。
そんな彼が見事なピッチングで相手打線を7回まで3安打0点に押さえ込んだ。
安達監督は万全を期して8回から昨日140球で完投した石山をリリーフに送り、
反撃を1点に押さえて勝利した。
味方打線は9安打を放ち、5安打散発の相手を力で上回った。この二人は予選
10試合の全てで交互に投げてきたが捕手の吉本(4年:文学部)はプロ野球楽天
に入った寺田と札幌南高でバッテリーを組んでいただけあって、配球などインサイドワークに優れその力を引き出す上で大きな力となった。以下にその得点経過を示す。
広島経済大 000000001 1
北大 10000002X 3
この試合で第一戦に続き初回、ヒットで出て得点した福田(4年:増殖生命学科)は水産学部のため2年前からは毎土、日曜日札幌に出て来てチームに合流し練習してきたが、夜は函館太洋倶楽部(旧函館オーシャン)の練習に加えてもらい厳しい環境に耐えてきた。ちなみに4年目の研究テーマは昆布の精密成分分析で新しい栄養素の開発、精製に取り組んでいる(手伝い?)とのことである。チームメイト誰もが彼のひたむきな努力に拍手を惜しまず不動のトップバッターとして認めている。将来、いい仕事をする男達の中の一人であろう。
国立大学に限ればベスト8に進出したのは過去に1校のみで12年ぶりとのことである。
ここで北大が全国出場を果たした3回の記録をたどってみると、
1965年 対 関東学院大 0 ? 9
1984年 対 大商大 0 ? 4
2002年 対 福井工大 2 ? 3
で総計2 ? 16となり力負けの感を免れない。
初出場から45年目の今年、何が変わったのだろうかとの問いに容易には答えを引き出せない。昨年の秋以来、OB会長として小生が最も心を砕いたのは監督、コーチ、主力選手の間の一体化であった。自分自身の経験でもそうであったが大学生ともなると批判精神は旺盛となり、それなりの野球理論、戦術論を持ち込む。自分たちで勝つための方程式を練り上げる(彼等はこれをサミットという)。彼等の提案を監督、コーチがどう拾い上げ練習方針、練習内容、選手の起用、戦術、最終的にはサインまで決めて行くかがチーム一体化の重要な鍵となる。昨年の秋は12人の4年生(うち投手4人)を有し、戦力的には勝てる要因が揃っていたが意外にも負け続けついに最下位になった。
2部リーグ優勝校との入れ換え戦に臨み4年生を中心に最後の踏ん張りで2勝1敗、
かろうじて1部に残留できた。
これを機に上述した議論が沸騰してきた。安達監督は小生のコーチ、監督時代の主力選手、主将であり、会社員としての職責を十二分に全うした後、OB会の強い意向を受けて監督を引き受けてくれた。それまでの北大野球部は大学院生などが短期間、交代で監督を務めていたが小生、現役がやがて社会に出てチームリーダーとなるその“教育の場”としての野球部のあり方を考え直す必要があると強く感じていた。
安達監督は40数才の年齢差および教職の経験がなかったため若者とのギャップに悩んだ。
そこで最初の2年間は助監督の立場で現場に入り、夜遅くまでの議論、毎朝6時からの全体練習に臨んだ。60才の身には耐え難いものも多かったに違いない。よくやってくれた。
やがて現役の全員がこの事をよく理解した上で、大人の判断をしてくれた。チームが完全に一体化した。これこそ今回の快挙の最大の要因と信じてやまない。
熱 闘 3時間21分延長14回力尽く
最初にこの試合経過を示す。
北大 00020001000000 3
八戸大 01002000000001 4
実に力の入った互角の戦いだった。8回一死二塁、1点差に詰め寄られた八戸大
はエース塩見投手(帝京第五高)を出すしかなかった。塩見投手は前日、プロが最も注目する大野雄大投手(佛教大)に投げ勝っていた。球速もあるがスライダー、シュートが鋭く、容易には打てそうになかったが堤(4年:工学部環境社会工学)が見事に中前にはじき返し、同点に追いついた。1000人を越える応援席は喜びを爆発させた。この試合は石山が先発したが4回途中、コントロールが乱れ同じ4年の浄野(経済学部経済学科)にマウンドを譲った。予選の結果を見る限りこれは冒険とも言えた。なぜなら予選で四球を連発し、周りをハラハラさせられていたからである。
しかし安達監督は彼の4年間をじっと見てきた。信念に揺らぎはなかった。ねばってねばって2イニングにわたって1安打で切り抜けた。驚いたことに左打者のところで今度は杉谷(3年:工学部情報エレクトロニクス学科)をマウンドに送った。彼は札幌北高のエースとして期待され入部したがその後スピードが出ず、出番がほとんどなかった。しかしこれまでのひたむきな努力に対し安達監督は“1人だけ頼む”と神宮のマウンドに立たせた。彼はその期待に見事に応えた。ここで前日先発した佐藤輝を送り、塩見投手との投げ合いに持ち込んだ。その後、塩見投手から2安打は打ったが得点を奪えず運命の14回裏を迎えた。何か胸騒ぎがした。急に静かなほんのひと時がすぎた。先頭打者の田代外野手(東海第四高)が引っ張ったライト線への当たりがぐんぐん伸びて、黄色いポールに当たったのである。3時間21分の熱闘は終わった。
応援席に向かって深く一礼する選手達の顔は涙に目を腫らせながらも実に爽やかであった。
ヤクルトの川島、楽天の青山らを出し“プロあるいは社会人野球の世界に選手を残してあげるのが私の仕事です”と語る相手の藤木 豊監督をして“北大は元気が良く全員で野球をやっていた。学生野球の鑑”と言わしめた。塩見投手は“相手のベンチからいつも声が出ていたが決して自分たちをヤジったりはしない。束になってかかってくる感じでずっとしんどかった”と話した。
翌日八戸大は東洋大に5 ? 1で敗れ、その東洋大は慶応大を5 ? 0で完封した巨人
原監督の甥にあたる東海大菅野投手の155キロの速球を打ち崩し優勝した。上には
上があるものである。
東洋大は日ハム大野、岩舘らの出身校である。ちなみに石山の最球速は137キロで
あった。閉会式で北大は学生野球の神髄を示したとして
特別表彰を受けた。
おわりに
報告会で選手に語ったことは一言だけである。“野球部で学んだ結果は20年後
にこそ評価されるべきもの。今年のチームで得たもの、すなわち一人でやったって大したことはできない、チームでやれば何かが出来る。これを信じて明日からひととき教室にもどり将来へ向けての目標を今一度自らに問えと…”
少しビールを飲んだところで、小生の脳裏をよぎったのは卒業時によく唱われた“若者たち”の一節であった。“君の行く道は果てしなく遠い。だのになぜ歯を食いしばり、君は行くのかそんなにしてまで…”
野球を通して若き時代への想いを綴ってみた。北大野球部のさらなる前進を
心から願い応援し続けたい。